少し、がんばりすぎたかな?運悪く吹雪に見舞われて、元就は、軍の群れから離れてしまったらしかった。息を殺して歩を進めると、一人の男がしゃがんでいた。しん-とした冷気の中に、小さな足音を慎重に立ててみると、男は振り返った。
白は、雪景色の中になかば溶け込んでいたが、衣服の赤は白銀の闇の中に浮き上がっていた。雪による寒さのせいか、顔がひどく青白い。しかも、残念なことに敵軍の若者らしい。元就という男は、さすがに雑兵までとはいかないが、自軍の兵の顔をほとんど覚えていた。
(秀吉軍団の若者だろうな・・・。困ったな)
振り返った男は、おもむろに立ち上がった。足元には、何者かが罠として仕掛けたらしき跡が見えた。
(なるほど、あの罠に足を引っかけて転んでしまったんだね)
このような危機に犯されていても、元就の容貌は暢気なままであった。対する若者の顔は、先ほどよりも緊張感が満ちていて、良くも悪くも好戦的だ。目はすっとキレ、わざとらしくない具合に鼻筋は通っている。口元はきゅっと結ばれていてだらしなくない。何か非を唱えようにも、無駄のない顔つきだった。要するに‘美しい’のだ。
しかし、その美しさが、元就には物足りなかった。足りすぎていたのかもしれない。整いすぎている為に、冷たい印象を嫌でも抱いてしまうのだ。
「大一大万大吉とは、なかなかよい言葉だね」
若者の衣服に書かれている言葉が、ふいに目に入った。敵であることを忘れ、暢気に声をかける。言葉を使えば、人の心を表すことが出来る。人の心の鐘を鳴らすような歴史的に重みのありそうな言葉が、元就は好きだった。
「お前のような老いぼれに、何がわかるというのだ」
若者が鼻を鳴らして答える。
「老いぼれとは、ひどいな・・・」
若さ故の尊大さなど、気にする由もない元就は怒りもせずに話を続ける。
「縁起のよい字ばかりが使われている。聞いた話によると、秀吉公は‘大’という字が好きなんだそうだね。それにあやかっているのかな?」
「答えにたる人物にしか、答えたくない」
「あ・・・・・・」
この若者は、目の前にいる(若者曰く)老いぼれが、毛利元就ということに気づいていないようだった。元就はしばらく瞬きを忘れた。そして、戯れ心が芽を出した。
「私はね、歴史を研究するのが好きなんだ。特に、後世に残るような言葉も好きでね。君はなかなか利発そうな顔をしている。後世に少しは、名を残すかもしれないね。書に記しておきたいので、名を聞かせてもらえないかな?」
柔らかに語りかけながら、若者の目の前まで歩を進める。お互いの吐く白い息が、重なる距離だ。若者は一瞬、身体を硬直させたように身を守る体勢をとったが、元就の暢気な言葉に少し肩の力を抜いた。そして、首を横に振った。
「俺は秀吉様が天下を取り、太平の世を築くことができればそれでよいのだ。俺の名など残らずともよい」
言葉に自信が満ち溢れていた。自信だけが妙に先行している人間は、往々として危険な場合がある。物事が上手くいっている間はよいが、上手くいかないことなどを他人に指摘されるのを極端に嫌う。敵を作りやすい。
元就は、自信家である利発そうな美しい面持ちを持った若者に反発心を抱いた。いや、少なからずとも、興味を抱いてしまったのかもしれない。
「『見所より見る所の風姿は、我が利離見也。しかれば、我の眼の見る所は我見也』ってね」
元就の言葉に耳を傾けていた若者が、首をかしげている。眼はあらぬ方を見やり、空を眺めているように見える。利発な頭を回転させて、記憶を蘇らせているのだろう。元就はすぐに種明かしを始めた。
「これは、世阿弥の言葉さ。君も知っているかもしれない・・・知らないかもしれない。どちらでもいい。私から君への戒めの言葉だね」
若者は未だ、閉口して思案を巡らせている。
「さてと・・・君の名前だけど・・・教えてくれるかい?」
いつの間にか、元就のペースに合わされてしまった若者は、石田三成・・・と小さく答えた。元就は満足そうに、微笑みを浮かべた。
「先ほどの意味はね、目を前に見て、心を後ろに置け・・・ってことなんだけど・・・ここまで言えば聡い君にはわかるだろ?」
(石田三成・・・か。あまり好きではない戦の中で、なかなか楽しい時間を過ごさせてもらったな)
三成は、瞬きを繰り返し小さく笑った。
「敵対する者同志・・・この場において、普通ならば斬りあっていてもおかしくないはずだ。それすらせず、俺に学の時間を与えてどうしようと言うのだ」
猪武者のようなタイプならば、三成のように冷静に会話を楽しみだすということはしなかっただろう。そういう点で、この二人は意外と馬が合ったのかもしれない。
元就は、少し三成という男のことが好きになった。教養人としてすぐれていそうな人間には、心が緩む(少なくとも家臣として召抱えるなどとは、別のことだが)。
三成は、期待を込めて元就の答えを待っているようだった。白い息を吐きながら、三成は少年のような面持ちで元就を見つめていた。甘酸っぱい期待に答えることはせず、元就は三成の頬を両手で包みこんだ。
「ひどく冷たいね・・・。君の心が凍ってしまわないように祈るよ」
冷気を帯びた頬に赤みがさす。元就は両手で頬を引き寄せ、三成の口中に舌先を押し込んだ。荒々しかった。三成の口の中は熱く、唾液に溢れていた。元就の触角はいつのまにか充血していた。
(まだまだ私も若い・・・な)
満悦した元就は、三成より舌を離した。甘い余韻に浸ることもなく、踵を返し歩き出し、惚けた表情の三成へ振り返った。
「そうだ。君の名前を教えてもらったお礼に私の名前を聞いてくれるかい?」
元就は、後ろずさりに歩きながら苦笑した。
「私の名前は・・・・・・毛利元就さ」
短く言い終わると、森の中へ駆け込み、姿を消した。三成は、目を見開いて呆然と元就の影を追っていた。口内には、注がれた暖かい唾液が残存していた。